イエロー・レッドカードの導入
文:ロベルト島
1970年メキシコW杯での初めてシリーズ…
サッカーがサッカーになったのは、競技規則の制定された1863年と言われている。
審判にとっても重要な年である。まだ日本では明治にもなってないのだから大した
もんだ。このころのイギリスは、貴族がそれまでのスポーツらしきものを次々と
ルールを整備しスポーツへと進化させている。サッカーもその一つなのだ。
遠からずその競技規則に反する競技者への懲戒は、罰として記載され実施されること
となる。それは1891年に警告と退場という形で登場する。それは主審によって管理
され主審によって対象競技者に告げられる形をとっていた。
1.国際試合の増加
1930年に始まったワールドカップ(正式にはジュールリメ杯争奪世界選手権大会)
は第二次世界大戦を挟んで1950年に再開される。オリンピックでもサッカー競技は
正式種目としてナショナルチームのアマチュア最高峰の戦いとされることとなる。
当然参加国は増え、予選も各国で行われることとなる。
ナショナルチーム同士の対戦では、当然第三者の立場(違う国)の審判が登場する。
警告・退場は言葉でのみ発せられているので、興奮状態にある競技者と審判の間では
言葉によるミスコミュニケーションが起こることとなるのは当然至極である。
特に1960年チリW杯、1966年イギリスW杯では収拾のつかない乱闘騒ぎが
頻発しサッカーの試合としては観客も含め後味の悪いものとなっていたのである。
2.カードの導入
先のW杯審判として活躍していたイングランド協会所属のケネス・アストン審判員も
そのことを憂慮している審判の一人だった。ある日彼はそのことを考えつつ車を運転
している時に、信号機から警告(黄)と退場(赤)カードを発案したと言われている。
試験的導入を経て1970年W杯から正式導入に至った。競技者のみならず、ベンチ、
観客を含め分かりやすいと非常に好評であったらしく、試合をマネージメントする力として審判の大いなる道具となった。その結果このメキシコ大会では退場者がゼロであった記録が残っている。
公平・公正で安全、みんなが楽しいサッカーの精神を踏まえた競技規則の改定、実施はここにも垣間見られるのである。
現在、試験的導入を行っているゴールラインテクノロジー(ゴールの監視システム)や
ゴール判定予備審判、VAR(ビデオアシスタントレフリー)などもその延長線上に
ある試みと言える。まあ試している時はいろいろ物議はあるが…
文:ロベルト島
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