ロートルサッカー審判よもやま話

審判目線からのサッカーの話

1970年W杯②

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W杯の歴史を見てもエポック的な大会であったことは前回にも記した。

システムと戦術に関しては、ブラジルの形態について続きを解説したいと思う。

この頃のサッカー世界情勢は、それぞれの国のリーグでほぼ自国選手が登録される

ことが多く、現在のようなチームとして欲しいスタイルの選手を地球規模で探す

ようなことはあまり無かった。

故にその国々のスタイルが逆に育つ環境であったと思う。

ブラジルの流動的攻撃スタイルの続きとイタリアの主に守備について話を進めたい。

 

 

1.ブラジルの攻撃

このW杯のブラジルの攻撃力はすさまじく、予選から決勝戦まで引き分けのない

全試合全勝の完全優勝であった。これは今までこのブラジルチームのみが成し得た

とてつもない記録である。ブラジルの豊富なタレントは、ペレを筆頭にトスタン、

リベリーノ、ジャイルジーニョ、ジェルソン、クロドアルドなどエース級が

ずらりと揃っていた。フリーキックの神様リベリーノが少し不調だったぐらいで

ジャイルジーニョは大会全試合で得点する快挙を成し遂げている。ペレがW杯

ブラジル通算100点目を決勝戦で上げたり象徴的なゴールが多かったことから

ペレの大会とも呼ばれているが、内容を見る限りブラジルチームそのものが、他を

寄せつけない存在感があった。攻撃を組み立てていたのはジェルソンとトスタンで、

その仕上げをジャイルジーニョが決める展開が多かった。ジャイルジーニョの役割は、

今のシャドーに近い。足元がしっかりしていてジンガ(カポエラの神様)が下りて

くることもしばしば感じられた。

リベリーノのFKはその次の1974年大会で炸裂するが、この大会では高地及び

新ボールがなじまないのか、吹かしてばかりいた。

予選リーグの中では、イングランド戦の攻防が一番見応えがあった。前半早々の

ペレの叩き付けるヘディングシュートを片手一本でクロスバーの上を越えて弾き

出したGKゴードンバンクス、弾丸ミドルシュートを放ったボビーチャールトンなど

イングランドメンバーがベストイレブンに入ったのはこの試合の印象が強い。

 

2.イタリアのカテナチオ

イタリアは、前ロンドン大会で北朝鮮に負け予選敗退となったことがよほど堪えた

のか、イタリア人好みなのかはよく分からないが、守備に重きをおいた戦略を取って

勝戦まで辿りついた。今でいう5-3-2のシステムだが、ベルティーニを一人

余らしてスイーパーのようにしていた。最終侵入してきた相手攻撃陣を全て掃き出す

(スイープする)役割。バックラインを扉とするとその後ろの閂(かんぬき)の様で

ここからカテナチオと呼ばれる戦術となったと言われる。このイタリア式守り優先

カウンター1発方式は、代々受け継がれ1982年W杯で集大成を迎える。今では

そこまでのカテナチオはイタリアでもあまり見なくなった。

ブラジルとは対照的に、予選リーグでは1-0スウェーデン、0-0ウルグアイ

0-0イスラエルとメキシコの中でもより高地(2250m超え)で戦ったイタリアは

省エネのシステムを採用せざろう得なかったことも戦術に影響したのかも知れない。

この印象と決勝戦の点差が響いたか、準優勝したにも関わらず、ベストイレブンに一人

も選ばれていないのは少し可哀そうな気がしたが…

勝戦のイタリア先発メンバーは以下のとおり。(日本語表記に自信なし~)

 

・GK  アルベルトシ(サブにゾフ)
・DF  ロサート
     チェラ

     ブルチニ   (右サイドバック)
     ファケッティ (左サイドバック)

     ベルティーニ
・MF ドメンギーニ
     システィ

     マッツォーラ   (ジャンニリベラ)
・FW   ボニーセーニャ

    リーヴァ

 

1-4で敗れた決勝戦がイメージの悪いイタリアだが、実はその前の準決勝で西ドイツ

と延長戦までもつれた名勝負を行っている。脱臼した西ドイツベッケンヴァウワーが、

交代選手枠を使い果たしたことから肩をテーピングして延長戦を戦ったことは有名な話

である。結果4-3の殴り合いでイタリアの勝利。「アステカの死闘」と呼ばれたこの

戦いは、途中出場のジャンニ・リベラ(1969年バロンドール受賞)が決勝点を挙げ

決着をつけている。攻撃的なリベラは電子頭脳と呼ばれトップ下で柔軟なポジション

から意外性のあるパスを供給するタイプで個人的には好みの選手だった。ただ、調子を

落としていたのと一番は戦術に合いづらいことから、サンドラ・マッォーラ(子供の

我々は、サンダル・マッタイラーと呼んで楽しんでいた)に後塵を拝していたように

見えた。

GKはアルベルトシ。あの「伝説的ゴールキーパーディノ・ゾフがこの時のイタリアの

チームの控えのキーパーだった。イタリア守備陣の要のキーパーとして、アルベルトシ

が当時の世界屈指のGKであったことは間違いない。若きゾフもアルベルトシから大き

な影響を受けたことは想像に難くない。ソ連レフ・ヤシンなどこの大会は名GKを

多く見ることができた。現在のように直接攻撃に参加することはなかったが、守備の

要として大きな役割を果たすGKの存在を高めた大会でもあった。

イタリアの攻撃に話を戻すと、べルティニとマッツォーラがゲームメイクし、FWの

リーヴァやボニーセーニャが得点するのがパターンだった。リーヴァは左利きの釜本

のような感じで絶対シュートまで持ち込むって気持ちがすごく感じられた。

ボニーセーニャはゴール嗅覚に優れ、いつもいいところにいる選手、相手守備陣は

やられたと思っただろう。

 

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3.番外編

この大会でブラジルが3度目の優勝を飾り、取り決めにより優勝カップの「ジュール・

リメ杯」を取り切った。そこで1974年西ドイツ大会から現在も使われている

デザインの「FIFAワールドカップトロフィー」となっている。なお、ジュール・リメ

はその後盗難に会い現在も行方知れずである。この事件のため今のトロフィーは優勝

しても自国に持ち帰ることができなくなってしまっているという。 

 

また、この大会でペレは「背番号10」だった。この大会以降、世界中のサッカーチーム

で「エースナンバーが10番」となった。それまではセンターフォワードの9番を誰もが

着けたがっていた。サッカーの10番が人気となったのは、この大会のペレから

始まったということは、世界中のプレーヤー皆がペレのプレーに憧れていたこと表して

いる。ただ10番がファンタジスタと言われるまでには、その後の10番プレーヤーの

活躍を待たなければならない。

 

この大会で初めて日本人がピッチに立っている。丸山義行国際審判である。

1968年メキシコオリンピックの舞台で何度も選出され大舞台に立たれ、その際に

FIFAの会長から直接2年後の準備をお願いされてのW杯日本人初参加となった。

ペルー戦の2試合の線審(今の副審)を務められたことは当時大きな話題となった。

審判のW杯初出場が、一足も二足も選手より早かったのである。丸山さんがいらした

から、その後の高田さん、岡田さん、上川さん、西村さん他、と続く、脈々とした

日本の国際審判が生まれる源泉となっている。そのご功績を記しておきたい。 

 

ブラジルにはブラジルの、イタリアにはイタリアの、西ドイツには西ドイツの、

イングランドにはイングランドのサッカーが現在より色濃く存在したこの大会は、

いろいろな初めての試みを始め、その後のサッカーに影響を与えた。今でも振り返り

の材料となっていると思う。

そんな視点で記録媒体を見直してみたらいかがでしょうか?

楽しいですよ!

 

 

文:ロベルト島

 

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